作曲:山田耕筰
・内容:ピアノピース
・発売日:2024年4月28日
収録曲
変奏曲ト短調
変奏曲イ長調
変奏曲ヘ長調
解説
山田耕筰は1910年春にベルリンに渡って王立アカデミー高等音楽院に入学、レオポルト・カール・ヴォルフから作曲の指導を受ける。山田はここで、フーガ、ロンド、変奏曲、シャコンヌなど、バロックや古典派などの伝統的書法を徹底的に学ぶのだが、そうした中で書かれた習作の多くが現存しているだけでなく、一部の作品は演奏、出版まで計画されるなど、単なる課題の域を超えた“作品”として、彼は見ていたのではないかと思われる。
山田耕筰は1910年春にベルリンに渡り、王立アカデミー高等音楽院に入学、レオポルト・カール・ヴォルフから作曲の指導を受ける。山田はここで、フーガ、ロンド、変奏曲、シャコンヌなど、バロックや古典派などの伝統的書法を徹底的に学ぶのだが、そうした中で書かれた習作の多くが現存しているだけでなく、一部の作品は演奏、出版まで計画されているなど、単なる課題の域を超えた“作品”として、彼は見ていたものと思われる。
本巻に収録の変奏曲は、1910年の秋頃から手がけていた課題であり、ト短調、イ長調、ヘ長調の順に作曲された。このうち最初に書かれたト短調の変奏曲はテーマと12の変奏を展開する最も充実した内容になっており、留学を終えて帰国した後の1916年1月30日に「ヤマダ・アーベント」と題されて開催された演奏会において、東京音楽学校教授のパウル・ショルツによって初演されている。当日のプログラム・ノートにのために山田は以下の文章を残している。
― この曲は1910の秋、学校の宿題として作ったものです。普通ヴァリアツィオーネンの多くは、その主題を民謡や小歌謡に採っておりますが、この曲においては、主題も私自身のものでございます。それは4分の3拍子、16節から成り立っている主題です。それに12回着物を着更えさしてみました。この曲には別に多くの記憶を持っておりません。ただ、極めて厳密な形式の上に自分の楽想と自分の技巧とを練磨したに過ぎません。 ―
バロック風の付点を強調したテーマに始まり、古典派様式に基づくオーソドックスな変奏を展開していく本作には、未だ山田らしさという部分はほとんど見られない。しかし、こうした研究と実践の繰り返しにより、『哀詩「荒城の月を主題とする変奏曲』などの優れた変奏曲を編み出す技法を身に付けたのであり、のちの山田耕筰の音楽を知る上では、決して無視できない作品である。未刊行となった「山田耕筰全集11 ピアノ曲2」(第一法規出版)のための浄書版下も作成されており、山田自身も何らかの形でこうした習作を残しておきたかったものと思われる。
次に書かれたイ長調の変奏曲は(同年12月頃に書かれたものらしい)、8分の3拍子の優雅な主題から始まり、7つの変奏とコーダから構成されていたが、手稿譜ではそのうちの第6変奏にX印が付けられている。おそらく第3変奏と内容が似てしまったために、削除したものと思われる。破棄された第6変奏は、補遺として曲末に収録している。
1910年12月にイ長調の変奏曲を書いた後、翌年11年にかけて山田はヘ長調の変奏曲を書き始めるが、本作はわずか3つの変奏を五線帳に認めたのみで、たくさんの余白を五線譜に残したまま放置された。イ長調変奏曲の最後も、ト短調の第12変奏とよく似た展開をしていたことからも、どこか変奏のパレットに行き詰まったような印象を受ける。
だがしかしこうした試行錯誤も山田のキャリアに重要な糧となったに違いない。そして破棄されずに残された楽曲は、若々しい輝きとともに我々に音楽の楽しみを伝えてくれているのである。
作曲:山田耕筰
・内容:ピアノピース
・発売日:2024年4月28日
収録曲
変奏曲ト短調
変奏曲イ長調
変奏曲ヘ長調
解説
山田耕筰は1910年春にベルリンに渡って王立アカデミー高等音楽院に入学、レオポルト・カール・ヴォルフから作曲の指導を受ける。山田はここで、フーガ、ロンド、変奏曲、シャコンヌなど、バロックや古典派などの伝統的書法を徹底的に学ぶのだが、そうした中で書かれた習作の多くが現存しているだけでなく、一部の作品は演奏、出版まで計画されるなど、単なる課題の域を超えた“作品”として、彼は見ていたのではないかと思われる。
山田耕筰は1910年春にベルリンに渡り、王立アカデミー高等音楽院に入学、レオポルト・カール・ヴォルフから作曲の指導を受ける。山田はここで、フーガ、ロンド、変奏曲、シャコンヌなど、バロックや古典派などの伝統的書法を徹底的に学ぶのだが、そうした中で書かれた習作の多くが現存しているだけでなく、一部の作品は演奏、出版まで計画されているなど、単なる課題の域を超えた“作品”として、彼は見ていたものと思われる。
本巻に収録の変奏曲は、1910年の秋頃から手がけていた課題であり、ト短調、イ長調、ヘ長調の順に作曲された。このうち最初に書かれたト短調の変奏曲はテーマと12の変奏を展開する最も充実した内容になっており、留学を終えて帰国した後の1916年1月30日に「ヤマダ・アーベント」と題されて開催された演奏会において、東京音楽学校教授のパウル・ショルツによって初演されている。当日のプログラム・ノートにのために山田は以下の文章を残している。
― この曲は1910の秋、学校の宿題として作ったものです。普通ヴァリアツィオーネンの多くは、その主題を民謡や小歌謡に採っておりますが、この曲においては、主題も私自身のものでございます。それは4分の3拍子、16節から成り立っている主題です。それに12回着物を着更えさしてみました。この曲には別に多くの記憶を持っておりません。ただ、極めて厳密な形式の上に自分の楽想と自分の技巧とを練磨したに過ぎません。 ―
バロック風の付点を強調したテーマに始まり、古典派様式に基づくオーソドックスな変奏を展開していく本作には、未だ山田らしさという部分はほとんど見られない。しかし、こうした研究と実践の繰り返しにより、『哀詩「荒城の月を主題とする変奏曲』などの優れた変奏曲を編み出す技法を身に付けたのであり、のちの山田耕筰の音楽を知る上では、決して無視できない作品である。未刊行となった「山田耕筰全集11 ピアノ曲2」(第一法規出版)のための浄書版下も作成されており、山田自身も何らかの形でこうした習作を残しておきたかったものと思われる。
次に書かれたイ長調の変奏曲は(同年12月頃に書かれたものらしい)、8分の3拍子の優雅な主題から始まり、7つの変奏とコーダから構成されていたが、手稿譜ではそのうちの第6変奏にX印が付けられている。おそらく第3変奏と内容が似てしまったために、削除したものと思われる。破棄された第6変奏は、補遺として曲末に収録している。
1910年12月にイ長調の変奏曲を書いた後、翌年11年にかけて山田はヘ長調の変奏曲を書き始めるが、本作はわずか3つの変奏を五線帳に認めたのみで、たくさんの余白を五線譜に残したまま放置された。イ長調変奏曲の最後も、ト短調の第12変奏とよく似た展開をしていたことからも、どこか変奏のパレットに行き詰まったような印象を受ける。
だがしかしこうした試行錯誤も山田のキャリアに重要な糧となったに違いない。そして破棄されずに残された楽曲は、若々しい輝きとともに我々に音楽の楽しみを伝えてくれているのである。