作曲:山田耕筰
作詩:永井隆
・内容:独唱ピース(ピアノ伴奏付き)
解説
1949年12月作曲。「長崎の哀歌」の副題もついている作品。詩の永井隆は放射線科の医師であり、長崎の原爆投下で妻を失い、自らも白血病に苦しみながら 「長崎の鐘」などの著書を通じてこの悲劇を語り伝えることを続けながら、昭和26年(1951)43歳で亡くなっている。山田耕筰は1945年秋に長崎の光景を直に見て、その惨憺たる状況に相当のショックを受けており、病床の永井を励ます意味も込めて書かれたのがこの「南天の花」である。1948年に永井隆の「長崎の鐘」の音詩化の話を受けても1音符も書けずにいた。南天の花を亡くなった妻に見立てて歌う永井の詩に付けた山田の慈愛に満ちたメロディーはどこまでも美しく、どこまでも澄み切っているが、その美しさこそが戦争の悲惨さをいっそう鮮烈に表現している。山田が戦後に手がけた歌曲の傑作だが、楽譜が普及せずに幻の歌曲となってしまったのが残念でならない。
なお、スケッチとして残されていた四声合唱編成による永井隆辞世の句「しろばらの」も独唱&ピアノ伴奏用に編曲して収録されている。
作曲:山田耕筰
作詩:永井隆
・内容:独唱ピース(ピアノ伴奏付き)
解説
1949年12月作曲。「長崎の哀歌」の副題もついている作品。詩の永井隆は放射線科の医師であり、長崎の原爆投下で妻を失い、自らも白血病に苦しみながら 「長崎の鐘」などの著書を通じてこの悲劇を語り伝えることを続けながら、昭和26年(1951)43歳で亡くなっている。山田耕筰は1945年秋に長崎の光景を直に見て、その惨憺たる状況に相当のショックを受けており、病床の永井を励ます意味も込めて書かれたのがこの「南天の花」である。1948年に永井隆の「長崎の鐘」の音詩化の話を受けても1音符も書けずにいた。南天の花を亡くなった妻に見立てて歌う永井の詩に付けた山田の慈愛に満ちたメロディーはどこまでも美しく、どこまでも澄み切っているが、その美しさこそが戦争の悲惨さをいっそう鮮烈に表現している。山田が戦後に手がけた歌曲の傑作だが、楽譜が普及せずに幻の歌曲となってしまったのが残念でならない。
なお、スケッチとして残されていた四声合唱編成による永井隆辞世の句「しろばらの」も独唱&ピアノ伴奏用に編曲して収録されている。