作曲:山田耕筰
・内容:スコア・パート譜一式
編成
Violin、Piano
解説
「ルナに」
1907年、東京音楽学校卒業の前年頃に書かれたものと推定され、1931年に春秋社より刊行された山田耕筰全集第12巻「室内楽曲集」に初収録された。
山田耕筰が音楽学校時代に愛読していた英語版のゲーテ詩集に収録されていた「To Luna(シューベルトのD259『月に寄せて』と同一詩と思われる)」に感興を得て作曲されたものらしい。同じ頃に書かれた同詩集による歌曲『夜の歌』と同じように、本作も当初は歌曲として構想したものの、さらに自由な形式によって、詩の印象を表現しようとした意欲作。
「負い目」
…当時私は、義兄から金十五円の資を受けていた。衣食住から月謝、その他一切をその資によって支払わねばならなかった。もとよりそれは不可能なことであった。したがって、私は内職をした。英語や音楽の家庭教師がそれであった。
この下宿に移ってからわずか半年にもならない中に、私は経済上の破綻をきたしてしまった。私の部屋は学友の倶楽部ではあったが、誰として会費を納めてはくれなかった。私は度々下宿の主人から鋭い請求を受けた。しまいには「学校へ申告する」とまで言って威嚇された。私は親友川上に相談した。そしてその下宿を離れる策を講じた。
原田君も、その頃は財的には豊かでなかった。川上もその借財を引き受けるだけの身分ではもちろんなかった。最もそうした可能性を持っていた修造君は、そのとき脳膜炎で危篤の状態にあった。したがって、彼にその相談を持ち出すことも不可能であった。
そこで私は下宿の主人に単刀直入返済の方法について会議した。そうして月五円宛を支払うという契約のもとに、私は生まれて初めて三十幾円かの借用証文を書かせられた。保証人には原田君がなった。そうして私は川上の紹介によって、蔵前の浅草橋教会の一室に置いてもらうこととなった(中略)
今思い出すと、実にばかばかしいことのようであるが、実際生まれて初めての借用証文を書かせられた私の気持ちは実に厭なものであった。その夜私は、上野の森を泣きたいような気持ちになって四五時間もさまよっていた。そしてそのやるせない気持ちを、その夜一つの曲に描き上げた。大なる作曲者たらんとした当時の私としてはこれがまたなんとなく貴いできごとのように思われた。それはヴァイオリンへの楽曲で、『負いめ(Debt)』という英語の題を附して置いた。
(「フィルハーモニー回想」1926より)
「ヴァイオリン二重奏」
前述の、山田耕筰全集第12巻「室内楽曲集」編集時に、山田の従兄弟にあたる加藤武治のもとにあった手稿譜から版下が作成された。作曲者も記憶になかった作品であり、正確な作曲年代も不明だが、書法や筆跡などから上記2作品とほぼ同時期のものと推定される。全集の編者であった青木爽は、音楽学校の在学中に、山田や加藤、さらに大塚淳ら従兄弟三人で合奏を楽しむために書いたのではないかと推測している。
作曲:山田耕筰
・内容:スコア・パート譜一式
編成
Violin、Piano
解説
「ルナに」
1907年、東京音楽学校卒業の前年頃に書かれたものと推定され、1931年に春秋社より刊行された山田耕筰全集第12巻「室内楽曲集」に初収録された。
山田耕筰が音楽学校時代に愛読していた英語版のゲーテ詩集に収録されていた「To Luna(シューベルトのD259『月に寄せて』と同一詩と思われる)」に感興を得て作曲されたものらしい。同じ頃に書かれた同詩集による歌曲『夜の歌』と同じように、本作も当初は歌曲として構想したものの、さらに自由な形式によって、詩の印象を表現しようとした意欲作。
「負い目」
…当時私は、義兄から金十五円の資を受けていた。衣食住から月謝、その他一切をその資によって支払わねばならなかった。もとよりそれは不可能なことであった。したがって、私は内職をした。英語や音楽の家庭教師がそれであった。
この下宿に移ってからわずか半年にもならない中に、私は経済上の破綻をきたしてしまった。私の部屋は学友の倶楽部ではあったが、誰として会費を納めてはくれなかった。私は度々下宿の主人から鋭い請求を受けた。しまいには「学校へ申告する」とまで言って威嚇された。私は親友川上に相談した。そしてその下宿を離れる策を講じた。
原田君も、その頃は財的には豊かでなかった。川上もその借財を引き受けるだけの身分ではもちろんなかった。最もそうした可能性を持っていた修造君は、そのとき脳膜炎で危篤の状態にあった。したがって、彼にその相談を持ち出すことも不可能であった。
そこで私は下宿の主人に単刀直入返済の方法について会議した。そうして月五円宛を支払うという契約のもとに、私は生まれて初めて三十幾円かの借用証文を書かせられた。保証人には原田君がなった。そうして私は川上の紹介によって、蔵前の浅草橋教会の一室に置いてもらうこととなった(中略)
今思い出すと、実にばかばかしいことのようであるが、実際生まれて初めての借用証文を書かせられた私の気持ちは実に厭なものであった。その夜私は、上野の森を泣きたいような気持ちになって四五時間もさまよっていた。そしてそのやるせない気持ちを、その夜一つの曲に描き上げた。大なる作曲者たらんとした当時の私としてはこれがまたなんとなく貴いできごとのように思われた。それはヴァイオリンへの楽曲で、『負いめ(Debt)』という英語の題を附して置いた。
(「フィルハーモニー回想」1926より)
「ヴァイオリン二重奏」
前述の、山田耕筰全集第12巻「室内楽曲集」編集時に、山田の従兄弟にあたる加藤武治のもとにあった手稿譜から版下が作成された。作曲者も記憶になかった作品であり、正確な作曲年代も不明だが、書法や筆跡などから上記2作品とほぼ同時期のものと推定される。全集の編者であった青木爽は、音楽学校の在学中に、山田や加藤、さらに大塚淳ら従兄弟三人で合奏を楽しむために書いたのではないかと推測している。